愚直の先にあるもの
今まで短絡的に評価されることに執着していた自分に反省。
というか、「評価されたい」という軸そのものから脱却できないでいることが輪をかけて何かしらの自分に対する違和感でもあるけれども。
愚直に追究すること、打ち込んでいくこと、結果的に長期的にはそれが評価されることがあるのが、この年になって徐々に分かってきた。
しかし、「評価される」ためにやっているのか?という根本がまだ分かっていない。
ただ、愚直にやるためには、自給自足ででも食い物に困らず衣食住が存在するど田舎生活か、或いはシリコンバレーのような多産多死を許容する投資環境、そんなものが必要な気がする。
「環境のせいにするのか?(己次第じゃないのか?)」
これについては正直そうだと思う。
環境が整ったから、愚直に何かを目指せるようになるわけではない。
順序が逆だ。
愚直に何かを目指す(勇気ある或いはバカで無計画な)行動を起こした時、それを支えたいと思う人・環境を整えてくれる人が(たまたま)現れた、というのが実態だと思う。